マクニール世界史講義
ウイリアム・H・マクニール 訳:北川知子
東大生協の本屋で一番売れたとか宣伝されたマクニールの「世界史」も途中で挫折してしまった僕である。そもそも読むにあたって前提となる知識を持っていないのかもしれない。なんてことをボヤいていたら、読書好きの知人からこの「マクニール世界史講義」を勧められた。曰く、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の元ネタであり、ユヴァル・ハラリの「サピエンス全史」でもそこかしこに引用や影響の痕跡があるらしい。上下巻で構成される「世界史」に比べれば、本書はぐっと量がコンパクトなので、マクニール史観をまず押さえるにはたいへん良い入門書であるとのことである。
本書は全5講で構成されている。第1・2講は、欧州からフロンティアへの進出の経緯と、かの地での社会形成のありようをどう見るか、という話。フロンティアにおいては中央以上にアナーキズムと強力な法拘束(私法だが)が同時推進したという見立てを説明する。荒野の無法者がギャングの掟で縛られているような感じだろうか。
世界史の俯瞰という意味では第3・4講が興味深い。世界史の変容を「ミクロ寄生」と「マクロ寄生」と「官僚支配VS市場原理」という3つのファクターで把握してみるというもの。
「ミクロ寄生」というのは、そのものずばり病原菌である。病原菌が人類史において投げかけてきた影響というのはかねてから知識としては理解していても、そのダイナミズムはなかなか体感できなかった。しかし2年前(もうそんなになるのか!)に突如コロナによって世界のスタンダードが変わってしまったのを目の当たりにして、なるほどウィルスと人類というのは永遠に宿命のライバルなのだということを痛感した。
世界史においては病原菌と感染症をめぐっては、単にかの地の人口が病で減ったというだけではなく、それによって集団の移動という現象ももたらしたし、一方の集団が免疫を持ち、他方が免疫を持たない異なる者同士の邂逅がもたらす影響なんていうのもあった。歴史的インパクトという点ではこちらのほうが大きいかもしれない。北南米の原住民はヨーロッパから持ち込まれた病原菌によって壊滅した。
世界史というのは、このいつ何時現れるかわからない「ミクロ寄生」という外的要因リスクを常に抱えながら、「マクロ寄生」の変遷によって展開されてきた、というのが本書の史観である。「マクロ寄生」というのは要するに、支配する側とされる側、搾取する側とされる側、命令する側とされる側、の力学である。それは現代においても一企業の中にも存在するし、一国の中にも存在するし、国家同士の関係でも存在する。人間が2人以上存在すれば必然的に生じるものなのかもしれないが、これが案外に奥が深い。搾取の度がすぎては、されたほうが滅亡したり逃亡したりして搾取側も瀕する結果となる。かといって搾取を弱めすぎると、今度は搾取側が身を守るだけのリソースが足りなくなる。つまり「搾取量」には適切な水準があって、多すぎても少なすぎても持続可能ではなくなるのだ。徳川幕府では「百姓は生かさず殺さず」なんて言っていたそうだが、絶妙なコントロールが必要なのである。しかもよくしたもので、その最適一点を固定して維持することはかなり困難であり、常にどちらかに振り子のように揺れ動く。なぜかと言えば、その集団が常に内外からの変化にさらされ、そのたびに搾取量は調整を余儀なくされるからである。感染症の蔓延が理由のこともあれば、天候不順にやられることもある。他民族からの侵略にまみれたり、その対策にリソースを割かなければならないなんてこともある。「マクロ支配」を続けるには、常に動的均衡を試されるのである。
この「マクロ寄生」は、かつては暴力を背景にした支配であった。暴力をちらつかせて強権的に言うことをきかせる官僚支配というものが指示系統として発明された。中世西洋でも東洋中国でもインカ帝国でも同様であったというから、官僚制というのは人間が持つ先天的な思考パターンなのかもしれない。しかし人口の増加、生産量の増加、人口に対して生産物の余剰発生がうまれてくると、ここに信用経済(貨幣経済)がうまれ、官僚支配で言うことをきかせるのとは違う力学の「市場原理」なるものが出てくる。強権的に官僚支配で押さえつけるより、信用を担保に市場原理にまかせたほうが「国力」そのものは強大になるという不思議なパラドックスが生じたりする。近代世界史において、官僚主義化しすぎた中国は、市場原理の西洋に負けた所以である。
ただし、これもバランスなのであって、たしかに行き過ぎた官僚支配(それはおおむね独裁国家)は停滞や腐敗を招いてやがて自壊するわけだが、一方で、完全に市場原理に任せても社会は格差と抵抗が生じ、不安定になり、やがて無秩序になる。ほどほどの官僚支配とほどほどの市場原理の最適点というものが求められる。
しかし「マクロ寄生」の場合と同じく、これも結局は長い歴史の中で、各国はそれぞれの事情で官僚支配と市場経済のあいだを振り子のように行ったり来たりして、一点でとどまることがない。振り子を動かすのは内的要因もあれば外的要因もある。そしてその瞬間にもっとも力を持った国や民族が覇権をつくるのだ。近代世界でもっともベストタイミングにあったのがイギリスである。
最終講である第5講では、こういった「マクロ寄生」の振り子と、「官僚支配VS市場原理」の振り子、そして病原菌による「ミクロ寄生」が、あたかも三体問題のように干渉しあいながら世界の歴史は進んでいくということをマクニールは述べる。つまり、過去から現代だけでなく、これからもそうなのである。我々は中国の台頭やロシアの暴走をいま目の当たりにしているが、これも三体問題の経過のひとときなのだ。
さて、本書の底本となる講義は1980年前後に行われたものだ。これを現代2020年代において考えてみる。
まずあらためて整理すると、世界史において人類は「マクロ寄生」において、弱い集団、弱い民族、弱い国に寄生し、そのリソースを活用することで強い集団、強い民族、強い国が発達するという世界システムをつくってきた。
やがて20世紀後半になって成熟と反省の中で「弱い集団、弱い民族、弱い国」はあってはならぬものという見解が育ってきた。SDGsもこの範疇になる。しかし人類というのは近代以降「マクロ寄生」をしないで経済活動を行うという経験していない。したがってこれがどう着地するかは「実験」の域になるし、むしろちょっとした見え方が変わるだけで本質的な「マクロ寄生」は引き続き存在するのではないかという気にもなる。
そして、80年代はそこまで問題視されてなかったが、現在の世界においては「もうひとつのマクロ寄生」が破綻しかかっていることが自明である。
人類の究極の寄生先、それは「弱い集団、弱い民族、弱い国」なのではなくて、けっきょくのところは地球資源なのである。森林であり石油であり水であり風であり、太陽である。人類が寄生していたのは地球資源である。これこそもうひとつの「マクロ寄生」と言えよう。
本書第5講ではマクニールは「人類や地球での尺度で考えれば、これを一定の安定した均衡とみなすことができる」と述べているが、果たせるかな2022年。ここにきて二酸化炭素濃度の向上、平均気温の上昇、気象異常の頻発という「人新世」と呼ばれる地球規模の影響が出始めてきてしまった。
と考えると、世界史においても現在はかなり大がかりな転回点にきているとみることもできるわけだ。そうなってくるとマクニールが講義で締めたように「人類はこれに学んで生きてきた」でオチをつけるわけにはいかなくなる。これをしても人類は未曾有のゾーンに突入したことを改めて考えてしまう。